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Kaz3

Author:Kaz3
1955年3月生まれ
(A型/魚座)
自称ロマンチスト

今さらながらの出会い、
発見、気づき、等々
浪漫的あれこれを
楽しんでいる。

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春の前に ‥‥ 12年ぶりに見た故郷秋田の雪景色

2/29〜3/1の2日間、同窓会の用事で故郷の秋田に行って来た。
実に12年ぶり。
秋田新幹線がレッドカラー・ロングノーズのスーパーこまちになってからは初めて。

▼ スーパーこまち
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大宮から乗車。次の停車は仙台、その次盛岡。
通過する福島、宮城、岩手 ‥‥ 5年前の東日本大震災のことが当然頭を過る。

盛岡で はやぶさ から切り離され、ミニ新幹線の こまち は在来線の田沢湖線に入る。
その昔は特急で8時間。新幹線が出来てからのしばらくはL特急なる連絡車に乗り換えなければならなかった。
そんな昔を考えれば楽 ‥‥ ではある。

盛岡から雫石、その次の田沢湖までのしばらくは奥羽山脈の山中を走る。
田沢湖を過ぎると車窓からの景色が開ける。
あいにくの雨模様 ‥‥ でも見たい撮りたいと思い続けていた、秋田の雪景色。

車窓からレンズを向けシャッターを押した。

▼ 秋田行き スーパーこまち の車窓から
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定刻より少し遅れての秋田駅到着。雨に濡れずに済む範囲を少しだけ散策。
晴れていればもう少しいろいろ街歩き ‥‥ と思っていたが、あきらめた。

▼ 秋田駅と周辺の様子
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知ってはいたものの、駅周辺に且つての懐かしさは感じられない。町中は積雪も無し。


おじさんとおばさんが待つ家へ。
おじおばといっても血縁ではない、幼い頃から親戚以上の関係でつきあってくれている家。
連絡こそしてはいるが、顔を見るのは十数年ぶり。
おじさん90歳、おばさんは84歳になったとか ‥‥。二人ともになんとも元気だ。

翌朝、私が失礼する1時間ほど前。昔から人を見送るのが苦手なおじさんが、急にパチンコに行くと言い出した。
そのこと自体はいいのだが、大したことがないとはいえ外は前日夜からの積雪。そんな中を自転車で行くのだという。

▼ 翌朝の外の様子
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90歳が、雪があるのに自転車で ‥‥ 普通は心配が先に立つ。

▼ 出かけるおじさんを見送る
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おばさんに言わせればいつものこと ‥‥ だとか。覚悟もあるし、達観もしているようだ。
少し唖然としたが、何ともすごいおじさんとおばさんに(心の中で)大拍手 ‥‥ だった。

次いつ行けるか未定だが、おそらく二人共に元気でいてくれることだろう ‥‥ と思う。




母校での用事を終え、歩いて駅へ。

▼ 我が母校、秋田工業高校
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▼ 秋工同窓会館
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母校の秋工は秋田の名公園、千秋公園の裏手にあたる。

▼ 母校近くの橋から見える千秋公園裏手
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公園を抜けて行けば駅までそれほど時間は係らない。それこそ懐かしい道だ。
風景には多少変化があったとしても、道というのはそうそう変わるものではない。

▼ 千秋公園内と公園から望める街の様子
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ものすごく変わったとは思わないが、当然昔のままでもない。これはいたしかたのないこと ‥‥。

一つだけ心残り。
あいにくの空模様で、市内から望める秋田市象徴の山、太平山の姿を見ることができなかった。
次の楽しみを残した ‥‥ と思うことにしよう。


帰りの車中。大曲までの間にホワイトアウト寸前の様子を見た。
3月に入ってもまだ秋田は冬 ‥‥ と言ってるような風景。何度シャッターを押しただろう。

▼ 帰りの車中から
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雪国の冬は厳しい。それだけに春を迎えた実感を持てた時の喜びはとても大きい。

久しぶりに見ることの出来た故郷秋田の雪景色は、
遠い昔、強く強く春を待ちわびた気持ちを、改めて思い出させてくれた。




3月30日。今住む町、ひばりケ丘辺りは明日にでも桜満開の様相 ‥‥。

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一冊の古い卒業アルバムに見た、太平洋戦争目前の時代……

 出身校の秋田工業高校(通称、秋工=あきこう)東京同窓会(東京秋工会という)の幹事をしている。仕事柄の関係もあって、その中での私の大きな役割は年一回発行している会報の制作。
 たかが同窓会の会報……と言うなかれ……。もちろんいろいろ分担してやっているのだが、なにせ50ページ前後あるボリューム、原稿集めや賛助広告のお願い……等々、けっこう大変なのだ。

▼ 東京秋工会会報(ちょっと紹介……)/今年発行されるもので23号になる
150301_会報金砂


 今年も会報の準備に取り掛かる時期になり、先月1回目の打合せがあった。その折、今号の参考資料にと会長のM先輩から一冊の卒業アルバムが私に手渡された。
 その卒業アルバムは昭和13年3月に秋工の機械科を卒業された大先輩(故人)が所有されていたもので、ご子息が遺品整理をした時にたまたま見つけ、何かの役に立てばと提供いただいた、とのことだった。

 昨年、創立110周年を迎えた母校の歴史をまとめた記事を書くため、参考に数人の方々の卒業アルバムを拝見する機会があったが、その際拝見したのは一番古いのでも昭和30年代前半のものだった。
 自分が卒業した昭和48年より古い昔の母校の様子などに多少興味は覚えることはあったが、極端な違和感を覚えるようなことはなかった。
 しかしながら今回拝見した昭和13年の卒業アルバムは明らかに違った、ちょっと衝撃的でもあった。これは非常に貴重な資料なのではないか、と、同時に、できれば一人でも多くの人に見てもらうべきものなのかもしれない、と思った。

 そんなわけで、全ページをスキャン。担当の先輩に頼んで同窓会(東京秋工会)のホームページにはすでにアップ済みだが、自分としても……の思いがあって、このブログにもアップすることにした。

 以下、わが同窓会とは関係のない人でも何かを感じていただけるのではないか……と思えるいくつかを、私の(余計かもしれない)感想を交えて紹介したい。




▼ 左:表紙(表装)/右:中表紙
150303_表紙と中表紙

 右の中表紙……。今とは左右逆の横書き表記がいかにも昔を感じさせる。が、戦前を舞台にしたテレビドラマなどを見慣れているせいか、これにはそれほどの違和は感じなかった。
 左の表紙を最初に目にした時、あれ?ということがあった。それは表示されている“2598”という数字。縦型・横型の違いや綴じ方の左右違いはともあれ、戦後の卒業アルバムは、校章は同じ……だが、この位置にあるのは卒業した年の西暦年。

▼ 左:昭和34年の卒業アルバム/右:昭和48年の卒業アルバム(私のもの)
150302_昭和アルバム

 後にこの“2598”なる数字は“皇紀”(皇暦ともいう=神武天皇即位を紀元とする紀年法)を著しているのだということが分かった。ちなみに今年は、皇紀2675年にあたる。
 戦後に生まれ育ってきた我々にとって、暦といえば西暦と元号での昭和○○年、平成○○年という表記があたり前で常識。皇紀で著すなどという感覚は皆無だ。
 これが、“皇紀”を著しているのだと気づかされた時は、少しばかり不思議な思いになった。

 中表紙をめくる。まず真っ赤な和紙に書かれた(印刷されたものだろう)君が代の頁がある。続いて昭和天皇・皇后両陛下の和歌と思しき短冊と秋田市にある三吉神社の写真が掲載された頁があった。

▼ 左:君が代の頁/右:天皇・皇后両陛下の和歌と三吉神社(秋田市にある)掲載の頁
150304_和歌と君が代

 表紙に“皇紀年数”の表記があってこれ。戦前から戦中にかけての日本では教育の中に「皇國日本」「神國日本」の史観・思想が義務的に組み込まれていたということは、多少なりと知ってはいたが、こうしたもの(卒業アルバム)からその一端を伺えるとは……だった。

 この後は、校歌や母校、校長、教員、クラス全員の写真、授業やクラブ活動などの様子……等々、卒業アルバムらしい内容になる。が、その中の数点にはいかにもこの時代を象徴している写真が含まれていて、私にはとても衝撃的だった。

 その数点をピックアップしてみる。

▼ 左:校旗と校歌の頁/右:軍服姿のある教員写真
150305_校旗と軍服教員

 左は校旗と校歌が掲載されている頁。パッと見では気づかなかったが、校旗を支えるように3本の歩兵銃があることに後で気づいた。母校を守るような概念が込められていたのだろうか?
 右は普通科の教員(先生)たちの写真が掲載されている頁。専門教科と事務方の教員が写っている頁にはいなかったが、ここには軍服姿の教員の方が写っている。
 こういう方々は普通科目としてどういうことを教えていたのだろうか? 想像はできるが……。

 アルバムを拝見した中でもっとも衝撃を覚えたのは次の写真かもしれない。

▼ クラス全員の集合写真
150306_全員写真

 学生服に学帽という学生らしい姿に兵隊装備を着け、足にはゲートル、手に銃剣付歩兵銃を持って勢揃い。軍服姿の教員は担任だろうか。その横の方はおそらくクラスの委員長なのだろう、一人だけ銃ではなく剣を抱えている。
 後には大砲……。これが卒業アルバムのクラス集合写真とは……。

 以下の写真も……だ。

▼ 軍事教練の様子(左右共)
150307_軍事教練

 左はおそらく校内での教練の様子、右は他校も含めた合同教練の時のものらしい。頭では分かっても、戦後生まれ戦後育ちで戦争は絶対すべきではないという教育しか受けていない者にはとても理解しかねる数々の写真……。
 特に左下の学校内に置かれていた銃器庫(室)の写真からは、母校にかつてこんな場所が設けられていたとは……という驚きとともに、ある種の恐さようなものを感じさせる。

 学校においてこういう教練がなされていた昭和13年辺りの世況というものが感じられる写真もあった。

▼ 当時の世況を著した頁(左右共)
150308_当時の世況

 軍政下の必ずしも正しく報道されていたのか分らない戦勝のニュースに沸く世況(左)。おそらくは軍事産業主体だったであろう工業界の担い手を排出する場所として期待されていた当時の母校の様子(右)。
 この後の日本が辿る歴史を知る者にしてみれば、これはかりそめの活況であり景気……ということになるが、その真只中にいた者にとっては、未来に希望が持てるこの時、だったのかもしれない。

 当時の秋工は、実業学校(工業学校)に分類され、尋常小学校(現在でいうところの小学校)卒で有資格、入学後の修業年数は5年だったと聞く。ということは、この卒業アルバムの方々は、昭和13年卒業の時点で17才だったことになる。
 このアルバム発行3年後の昭和16年、日本は太平洋戦争に突入する。戦勝の活況に沸いた日中戦争の時とは違い、日本はどんどん敗戦への道を進むことになる。
 このアルバムに載っている方々はちょうど20歳の時。希望に燃えて社会に出てこれから……という時に戦争が始まったことになる。ほとんどの方(全員かもしれない)がおそらくは否応無しに戦地へと行かされたことだろう。

 ここでの掲載は差し控えるが、このアルバムの後半に47名の方個々の顔写真が載っている。また2004年(平成16年)発行の同窓会名簿を見ると、昭和13年機械科卒業の方で、この時点で生存されている方は、47名中14名。物故者の内の何人の方が、終戦を迎えず亡くなってしまったのか……などと、ついつい思ってしまう。

 アルバムの中の別の頁を少し紹介する。

▼ 左:勉強中の様子/右:グループに分かれての記念写真
150309_授業の様子と

 左の勉強の様子だけを見る限り、私が秋工生だった時代との違いはそれほど極端に感じない。右の珍しい彩色写真に写る姿も、着衣に時代を感じさせはするが、私のアルバムの中にも似たような……という感じだ。
 こういう写真があって、先の戦時色溢れる写真もある、というのが何とも……。

 過去、親や親の世代、戦争の時代を過ごした先輩たちの話に接する機会がけっこう多く、頭では分かっていたつもりだった。このアルバムを拝見し、母校秋工にもそういう時代が確かにあったことの実感とともに、戦争がもたらす何がしかの矛盾、恐さ、悲哀のようなものを改めて感じさせられた。


 最後にこのアルバムにあった、母校自慢できる写真をちょっと掲載。

▼ 体操部全国大会初制覇紹介の頁(左右共)
150310_体操部全国優勝他

 我が母校の秋工は、ラグビー全国大会最多出場・最多優勝の古豪校として知られているが、戦前から戦後にかけての一時代、体操競技の強豪校としても知られていたと聞く。
 上は、昭和12年の體操(体操/昔はをこの字も使っていたらしい)競技全国大会初優勝のことを紹介している頁。よほど嬉しいことだったのだろう。昭和9年にすでに全国大会で初優勝を果たしていたラグビー部よりも、体操部のことが多めに紹介されている。
 ローマ、東京オリンピックの体操競技金メダリスト 遠藤幸雄さん(故人/平成21年逝去) は秋工出身。遠藤さんとの個人的な思い出が私にはたくさんある。いつかこのブログで紹介してみたい。



 卒業アルバムは、その時代時代を感じられる貴重な資料であることを今回改めて実感した。母校のこれからの時代の後輩諸君に母校の長い歴史や二度と来てはいけない戦争のような時代を感じてもらう意味では、さまざまな年代の卒業アルバムをホームページなどで公開するのも必要なのかもしれないように思う。

 私には左翼思想や右翼思想に傾倒するような感覚はない。ただ、母校に銃器庫を置き、生徒に兵隊の格好をさせ、銃を持たせなければならないような時代に絶対してはいけないと強く思う。


浅草で、秋田の竿燈……

 6月1日の日曜、浅草へ出かけた。久々の浅草見物……? 気分的には多少それもないではなかったが、この日は特別な目的があった。

 浅草で……わが生まれ故郷秋田の竿燈。今年で6回目になるそうだ。
 東京秋工会(私の所属する秋田工業高校同窓会東京支部)から情報を得ている関係で、4年くらい前から知ってはいたが、なかなかタイミングが合わず、一度も見に行ったことはなかった。
 で、今年こそは……ということで、ようやく見に行った……という次第だ。


5000

 10時半に家を出て、浅草に着いたのは11時50分。
 この日の竿燈演技の開始は11時。浅草寺五重塔前でスタートし、浅草寺周辺4ケ所で演技披露すると聞いていた。開始時間はとうに過ぎ、一回目の演技は終わっている時間。
 ともあれ、まずは五重塔前へと向かった。

 分かってはいるものの、さすがに東京一番の観光名所・浅草の日曜。地下鉄を降りたあたりからの人の多さと賑わい。しかも聞こえてくる話し声は多国籍。仲見世の通りは当然のごとく、人でごった返している。

▼ この日の仲見世通りの様子/宝蔵門前にて
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 脇道から宝蔵門前に出ると、左手先に3本の竿燈の姿が目に飛び込んできた。

▼ 目に飛び込んできた3本の竿燈/宝蔵門前より
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 演技は終わっていたようだが、お客さんに自由に竿燈を見てもらう、ふれあいタイム、のタイミングに間に合ったようだ。

 今年参加していた竿燈は大若3本。全て見覚えのある提灯のデザインだが、さすがにどれがどの町だったか、町名までは覚えていない。上の提灯に書かれた町名を見て確認。
 八日町(ようかまち)、四十間堀町(しじゅっけんぼりまち)、川口町(かわぐちまち)。どれも、私の生まれ育った町から徒歩で10分程度の範囲にあった町……今は使われていない旧町名が懐かしい。

▼ 左から、八日町(ようかまち)、四十間堀町(しじゅうけんぼりまち)、川口町(かわぐちまち)、の提灯
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 久しぶりに見る竿燈の姿をしげしげ……という間もなく、立てていた竿燈を倒し、次の会場への移動。最後の演技まで見ることに決めていたので、竿燈の後に着いて行く。

▼ 次の会場に移動する竿燈
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 移動の途中、昨日からやっているこの催しの世話役になっている同窓の先輩二人と合流。30度を越えたこの日、暑い中ご苦労様……。

 次の会場、花屋敷通り、に到着。ようやく竿燈の演技が見られる。

▼ 花屋敷通りでの竿燈演技の開始
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 竿燈の演技は、竿燈を立てた後、流し、といわれる技で、継竹を竿燈本体の親竹の下に差し込んで行くことから始まる。
 先輩二人と話し込んでいたため、最初の、流し、の技の部分を見過ごし、撮り忘れてしまった。

 流し、は、竿(継竹)の継ぎ足しの他、技への入り、技から技への移行などでも行なわれる。

 こんな感じ。

▼ 流し、の技の様子/けっこうな握力と技術が必要
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 立てた竿燈の下を片手で掴み、少しづつ竿尻を滑らせていき、手から下の部分にもう一人が継竹を差し込む。あるいはこの状態から、肩や額、腰に持って行く。

 竿燈の重さは、大若と呼ばれる成人用のものでおよそ50kg。それを片手で持って少しづつずらす、あるいは所定の部位に持っていく、というのはかなり大変だ。つなぎ技ではあるが、分かって見ていると、けっこう面白い。
 秋田で行なわれる妙技会ではこの、流し、の技も採点の対象になるそうだ。

 技は、流し、で継竹を2本以上差し込んだあたりから始まる。

 いわゆる見せ技は、四つ。

▼ 開いた手の平に竿を乗せる力技/手の平が開いた写真がうまい具合に取れなかった
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▼ 肩に乗せる/竿燈を始めると最初にまずこれを教えられる、そんな記憶がある
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▼ 額に乗せる/高難度で、鉢巻きが絶対必要な技
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▼ 腰に乗せる/竿燈の技の中では一番難しい
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 竿燈(大若)の長さは、基本12m。これに1mほどの継竹を継ぎ足していく毎に演技はどんどん難しくなっていく。この日見たのは3本まで。

▼ 花屋敷通りでの演技の様子/どっこいしょ〜、どっこいしょ、のかけ声が響く
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▼ 青空に映える、花屋敷のタワーと竿燈
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 約15分ほどで、花屋敷通りでの演技は終了。

 世話役のO先輩とここで一服。今年来た3本の竿燈の町は、去年夏の妙技会上位だったのだそう。昨年のこの催しに参加したのは、私の生まれ育った鉄砲町だったらしい。
 できれば……と思うのは、まあ当然だ。

 少し遅れて次の会場、西参道へ。

 先ほどはあまり気にしないでしまったお囃子。

▼ 女性二人(一人は笛)と男一人の編成のお囃子
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 笛の女の子は、私が秋田を離れる頃に住んでいた、馬口労町の半纏を着ていた。

▼ 太鼓の叩き方と音のイメージは未だに頭に残っている
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 太鼓は小中学校の頃よく叩かせてもらったので未だによく覚えている。竿燈のお囃子は、演技の際のものと行進の際のもの、二種類ある。

▼ スカイツリーが良く見えた西参道の会場
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 西参道から次。奥山おまいりみち、と聞いていたが、時間が押してしまったらしく、最後となる、六区ブロードウェイROX前の通りに移動。

▼ 六区ブロードウェイROX前での演技の様子
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 この辺りは建物が高い(ビル風の)せいで、風の動きが一定せず、竿燈には難しい場所とのこと。

▼ 技を行なっているままの状態で3本の竿燈を寄り添うように重ねた見せ場
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 この見せ場の後、額に乗せた演技の途中、風のせい(?)で竿燈が額からずれて落下し倒れ、ビルにぶつかったが、竿燈では良くあること……。もちろん大事にはならなかった。

 六区ブロードウェイROX前の通りを最後に、今年の浅草での竿燈演技は終了。

 先輩二人の後に着いて世話役の皆さんの集合所にちょっとお邪魔。帰り際に食事を一緒にと、先輩に誘っていただいたが、今日は部外者……ということで、まっすぐ帰ることにした。

▼ 帰り際、五重塔横から見えた青空の下のスカイツリー
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 午後2時半。まだ仲見世の人通りはすごかった。


5000

 秋田市での竿燈祭り本番は、8月の3日〜6日。大若、中若、小若、幼若……大小およそ260本の竿燈が繰り出すそうである。

 竿燈の魅力は先に紹介した、差し手が見せる技の数々ももちろん……だが、夜、暗い中に灯を入れた何万個もの提灯がゆらゆらと浮かび上がって作り出す、何とも言えない風景………あれを見ずして、何をか言わんや……である。

▼ 秋田市の竿燈大通りで行なわれる竿燈祭り本番の様子/秋田市竿燈協会の写真を拝借
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 秋田での竿燈を最後に見たのは、どれくらい前になるか……。

 秋田の竿燈祭りは今や全国、いや世界的に知られる夏祭りになった。遠い昔、2日間だった開催期間は4日間になり、今は毎夏100万人を超える見物客が訪れるという。

 去年の夏、ちょっと懐かしさを辿ってみたい思いから、ネットで鉄砲町と竿燈で検索してみた。するとなんと嬉しいことに、「鐵砲町竿燈会」なるサイトを発見できた。
 そこで改めて見た、生まれ育った町、鉄砲町の竿燈提灯。日の丸と書箱をくわえた狐(与次郎狐と言う秋田では有名な狐)が組み合わされたデザイン。
 小学校の4年生から中学3年まで、鉄砲町で竿燈に出ていた私である。忘れるはずがない。

▼ 鉄砲町の竿燈提灯/「二十世紀ひみつ基地」より写真を拝借
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 この提灯の図柄は、鉄砲町に生まれた版画家、勝平得之(かつひら とくし)さんの作ということだが、この勝平さん(勝平のおじさんと呼んでいた覚えがある)が、有名な版画家であることを知ったのは、東京に出てきてからのことだった。
 時折覗けた窓の中で、木屑にまみれるように仕事をしていた、勝平のおじさんの姿が、微かだが、記憶にある。

 近年はインターネットなどを利用し、ふるさと秋田の近況を即座に知ることができる。だがやはり、自分の目で見て、その空気を感じたい。
 行きたい思いは山々だが、今年も残念ながら竿燈には行けそうにない。ただ、今年の秋、久々に秋田に行くことにはなりそうだ。

テーマ:雑記
ジャンル:その他

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