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Kaz3

Author:Kaz3
1955年3月生まれ
(A型/魚座)
自称ロマンチスト

今さらながらの出会い、
発見、気づき、等々
浪漫的あれこれを
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記憶の中のフォークソング (1) …… <高田 渡 さん>の歌

数週間前、たまたま点けたテレビの番組で、
10年前に亡くなったフォークシンガーの高田 渡(わたる)さんが取り上げられていた。
番組は終わり近くだったようで、見たのは3〜4分ほど。
ゲスト出演していた息子さんの高田漣氏による、渡さんの曲の演奏で終わった。

それからしばらくして、これもたまたま買った雑誌の裏に「高田渡トリビュート」なる文字を見た。
渡さん没後10年に合わせて発売される、2枚のトリビュートアルバムの広告‥‥。
1枚は渡さん自身が歌っているもののベストアルバム、もう1枚は漣氏のカバー、というようなこと。
先のテレビ番組は、どうやらこのことを話題にしていたらしいことが思えた。

きっかけは些細なことでも、自分的に興味のあることの偶然が重なったりすると、
頭の中の記憶の何やらが刺激され、その関連のことがぞろぞろと思い出されたりする。

渡さんの曲を初めて聞いてから40年以上経つ。それほど熱烈なファンというわけではなかったが、
この人の歌が好きで、今でも何曲かの歌詞とメロディが、何かにつけ頭に浮かぶことがある。

特にこの歌……。

1505_01自転車に乗って


毎週土日の朝。わが家の決まり事は馴染みのベーカリーのパンでの朝食。
で、それを自転車に乗って買いに行くのが私の役回り。
その帰りの道すがら、途中にある原っぱ公園なんていうのも影響してなのだろうと思うが、
なにげにこの曲が思い浮かび、口づさむこともしばしば‥‥。

フォークソングに夢中だった高校生の頃、
この渡さんの代表曲「自転車に乗って」は、私のレパートリーの一つだった。
文化祭や小さなコンサートなどでよく歌った。
高田 渡 の名前を知らない人でも、おそらくこの歌は知っていると思う‥‥?


知る人ぞ知る‥‥のこんな歌にまつわる思い出がある。

1505_02コーヒーブルース
(背景写真=田無にあるフジカフェという私の馴染みの喫茶店)

ややマニアックな感もある歌だが、これも渡さんの代表曲「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」。

十数年前、カミさんとカミさんの兄姉家族と一緒に京都に行った時のこと。
錦市場辺りを歩いた後、どこか喫茶店に‥‥ということになった。
すると義姉が、「イノダコーヒー」の本店がこの近くだから行こうと言った。

実はこの日京都に足を踏み入れた時から私の頭の中にはずっと、
この「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」出だしの2行が浮かんでいた。
以前京都に来た時、行ってみたいと思いながら行けなかった、というのもあってのことだ。

今回は連れも多いことだし‥‥と、あまり考えないようにしていたのだが、
期せずして「三条堺町のイノダって云うコーヒー屋」に入ることになったのだった。

「イノダコーヒー」が京都では超有名な珈琲チェーン店であることを改めて知った。
近年は東京や札幌にも出店しているようだが、この頃はまだ京都市内に数店あるだけだった。
歌詞にある「三条堺町のイノダって云うコーヒー屋」は、もちろん本店のこと。
かつて谷崎潤一郎や池波正太郎といった文人や芸術家が常連客にいたと聞いている。
ただ、1999年4月に失火で半焼したため、1年ほどかけて改築したというから
渡さんが足しげく行っていた頃と内装などは違っていたのかもしれない。
それでもその日初めて行った「イノダコーヒー」本店は、なかなかの趣がある店に思えたのは確かだ。

考えてみれば、歌の歌詞に誘われるように入った喫茶店、なんていうのはここくらいかもしれない。


渡さんの歌には誰しもに覚えがあるような取るに足らない(失礼かな?)日常を歌っているものが多い。
半面、かなり痛烈な社会風刺のメッセージが入った歌も多くある。

最初に 高田 渡 の名前を知るきっかけになった歌がある。
ある年齢以上の方ならご存じの歌だろうと思う。

1505_03自衛隊に入ろう

この「自衛隊に入ろう」という歌には、自衛隊風刺の皮肉が込められていたにもかかわらず、
防衛庁(現防衛省)から自衛隊のPRソングとしてオファーがあった、という有名な逸話がある。

近年、特に東日本大震災時の自衛隊の活躍などを考えると、この風刺ソングは‥‥と、
思えてしまう感じもあるが、国の政策が一つ間違えば‥‥ということがないわけではなく、
なかなか考えさせられてしまう。要は政治次第ということか‥‥?

「自衛隊に入ろう」の他、「銭がなけりゃ」「鰯に鮪」「値上げ」‥‥といった
ちょっと揶揄した感じにチクリと社会風刺の言葉が入っているような歌もけっこう好きだったが、
どちらかといえばノンポリ系だった私には、この類いの歌に特別な思い出はない。


コンサートなどで渡さんの歌を生で聞いたのは5〜6回ほどだった。そのほとんどは合同ライブ。
一度だけ、他に気を取られることなくじっくり聞いてみたいと思って行った中野公会堂でのものが、
唯一の渡さん単独コンサートだった。

特にこの歌が聞きたくて行った‥‥と記憶している。

1505_04生活の柄

高2の時に初めてこの歌を聞いた。
元々フォークも‥‥で、別に何にこだわるというのはなかったが、
その頃は軽音楽同好会に入っていて、どちらかといえばエレキ片手にロック‥‥だった。
ある日クラスの友人が、聞いてみろと貸してくれた「ごあいさつ」(‘71年)というアルバム(LP)。
先の「自転車に乗って」も「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」もこのアルバムで知った。
その中で、気に入った、というよりは、気になった、のがこの「生活の柄」だった。

高3になってロックをやめた。自分で曲を作り、好きなように(?)歌いたい気持ちが強くなった。
前々からあったのだと思うが、この、渡さんのアルバムを聞いたのがきっかけだったように思う。
秋の文化祭。一人(一組)持ち時間30分のコンサート。
6曲ほど選んだ中に「自転車に乗って」と「生活の柄」を入れた。自作も1曲。
「自転車に乗って」はまあまあと思えたが、「生活の柄」は何かうまく歌えなかった。
以降、曲自体は好きなのに、「生活の柄」を歌う気にならなくなってしまった。

そんな気持ちがず〜と残っていたようで、渡さんがどんな風に「生活の柄」を生で歌うのか‥‥、
じっくり聞いてみたかった。
「生活の柄」はかなりスローテンポな歌。誰でもがうまく歌える歌ではないように思える。
渡さん独特の雰囲気と声ならでは‥‥が良い味となって自分に届き、あの歌が好きになったのだ、
ということを、改めて思ったのが、中野公会堂でのコンサートだった。

この歌を語ろうとすれば、この歌の作詞者となる詩人の、山之口 獏 のことも‥‥になるが、
長くなるのでここではやめておくことにする。


さて、今年4月16日で、渡さんが亡くなって10年。
とにかく酒が離せなかったという、どうしようもない飲んべえだったことで有名だった。
大ヒット曲があったわけでも、世の中が騒然とするような話題を提供したわけでもない人だが、
あの独特な歌の世界観は誰にも真似のできない、希有な存在だったことは、
誰もが認めるところだろうと思う。

先にも書いたが、私は渡さんの熱烈なファンではない。もちろん直接お会いしたこともない。
あの人の独特な世界観というか、歌から感じられる感性のようなものが好きなだけだ。
とはいえ、何十年経っても消えない歌の思い出をくれたことには、強く感謝の念を覚える。

そういう意味(?)で敬意を表しこれからも、高田 渡、ではなく、渡さん と呼んでいきたい。
これが一番この人に似合う呼び方のように自分勝手な解釈でそう思えるから‥‥。

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ジャズといえば、中央線……

 ジャンルを問わず何でも……というのが私の音楽に対する基本的志向ではあるが、フォークソングとジャズに関しては、ちょっと特別……な思いがある。



 もう1ヶ月以上前のことになってしまったが、久々にジャズに触れる機会があった。まずはその話から入ることにしよう。

 10月25日、昨年行くことが出来なかった“阿佐谷ジャズストリート”に行ってみた。とはいっても、4時30分から新宿で打合せの予定があったため、それに出かけるついで(?)に、1時間ばかり時間を取って寄り道……という程度だったが、それでも、いやいやなかなか……けっこう楽しめてしまったのだった。

 2時少し前、2年ぶりの阿佐谷駅に降りた。南北どちら側でもよかったのだが、とりあえず南口側に出てみることにした。

 駅口近くの案内所でパンフレットをもらい、道路を挟んだ向側、噴水前特設ステージに目をやると、アメリカ人、それも米軍の所属らしき制服の人たちが何やら慌ただしくしていた。
 パンフレットを見ると「米国空軍太平洋音楽隊<Pacific Showcase> 12:30〜」というのがあって、どうやらその演奏が終わったばかりのようだった。

▼ 米国空軍太平洋音楽隊、後片付け中……
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 一足違い……、米軍ビッグバンドの演奏、ぜひ聴いてみたかった。非常に残念。

 しばし後片付けの様子を眺めながら次のステージ予定を見る。まだだいぶ時間がある。北口側へ行ってみることにした。

 駅北口ロータリー中杉通り沿いの一画に人だかりが確認できた。ステージ代わり(?)の仮設テントの中では演奏予定者達が演奏準備の真っ最中。もうすぐ始まるようだ。

▼ 阿佐谷駅北口側のアーケードパサージュ前ストリートライブ会場の様子
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 立て看板に貼られた予定では、演奏開始2:00PMとなっていたが、少し遅れている様子。時間が気になったが、せっかくだし一曲くらい……ということで、しばし待ってみることにした。

 10分ほどで演奏が始まった。「竹内郁人クインテット」というグループ。

▼ 演奏中の様子/みんなしっかり聴いている
011_ph03.jpg

 ダブルサックスにキーボード、ベース、ドラムスの編成。ダブルサックス(2本ともアルト)というのは案外珍しいように思う。
 曲名は分らなかったが、ビバップ系の正統派モダンジャズ……、という感じの演奏曲。生でジャズバンドの演奏を聴くのはかなり久しぶりになるが、けっこうノれた。足が自然に動いた。

 十数分ほどの演奏で1曲目が終了。もっと聴いていたい気持ちにはなったが、南口側が気になるのと、少し空腹感を覚えたことがあって移動。
 北口の立食いそば屋に寄り、再び南口の噴水前特設ステージへ……。先ほど大勢いた米軍の人たちの姿はすでになく、次の演奏予定者たちが準備を始めていた。演奏開始には今少し時間がかかりそうな雰囲気。

 阿佐ヶ谷駅周辺、1〜2km範囲のあちらこちらでストリートライブが行なわれているはずであることは知っていたが、あと30分くらいで新宿に……というのがあって、駅近くから離れるのはちょっと躊躇。で、先ほど演奏を聴いた北口側に戻ってみたが、1回目のライブは終わってしまっていた。
 しかたなくまたまた南口側へと向かう……。

 噴水前特設ステージのセッションライブが始まっていた。

▼ 噴水前特設会場ライブの様子(右下/ノリノリで踊っている女の子)
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 ジャズというよりはR&Bという感じの、けっこうビートの効いたサウンド。道路を挟んだ駅口前の歩道ではノリノリに踊っている女の子の姿。

 このライブを時間まで……と、ステージの近くへ向かおうとしたら突然、広場の東側方向から耳に覚えのあるディキシーランドジャズの曲が聴こえて来た。
 振り向いてみると、パールセンター商店街口の辺りがいつの間にやらすごい人だかり……。

▼ パールセンター商店街口の人だかり
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 ちょっと迷ったが、R&Bも嫌いではないが、ここはやはり、耳に覚えのあるディキシーランドジャズ……と、自然に足が向いてしまった。

 歩いて移動しながら演奏する……ジャズウォーク。パンフレットには「ニューディキシーモダンボーイズ」と「早稲田ニューオルリンズジャズクラブ」の2つのバンド名。最終日の午後ということで、2つのバンド合同……ということらしかった。
 演奏曲はディキシーではスタンダード中のスタンダード“聖者の行進”。

▼ 2つのバンドが揃って“聖者の行進”演奏中/聴いてるみんなが楽しそうで良い雰囲気
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 あまりにも楽しい演奏光景だった。もうそろそろ、の時間だったけれどついつい聴き入ってしまった。それにしても、青服の道化師姿の御仁が演奏していた、打楽器をいくつも組み合わせたような楽器、ありゃ何だろう?

 各楽器のアドリブソロも入っての20と数分。ほんとに、久々に、音楽のある面白い風景に出会えた、という感じだった。
 3時15分には出るつもりが、10分以上オーバー。まあ遅れはしなかったけれど。


 私がこの“阿佐谷ジャズストリート”というものに出会ったのは3年前、ほんとに偶然のことだった。
 仕事中の骨折で職場近くの秋葉原の病院に入院していたカミさんを見舞った帰り、気まぐれに、帰宅最短ルートではない中央線を利用して家へ戻る、というのを何度かした。その何度目かのことである。
 今日は西荻窪辺りに降りて自宅に近い大泉学園まで歩いてみようか……などと考えながら中央線に乗っていた。電車が阿佐谷に着き、ドアが開くと同時に、ジャズの生演奏であることが分る音が聴こえて来た。思わず立ち上がり、電車から飛び降りた。その動作は自分でも不思議なくらい早かった。
 改札を出て音の聴こえる北口側へ出てみると、ロータリーの右向こうの一画に人だかりが見えた。ジャズの生演奏はそこからだった。

 前述の、阿佐谷駅北口アーケードパサージュ前のストリートライブ。それとまったく同じような光景を目にしたのが、“阿佐谷ジャズストリート”なるものとの最初の遭遇だった。

▼ 3年前の“阿佐谷ジャズストリート” 北口アーケードパサージュ前ストリートライブの様子
011_ph07_3年前北口ライブ


 この日、南口側へは行かなかったが、北口の商店街の通りで2組ほどの路上ライブなどにも足を止めた。通り沿いの居酒屋などの何軒かでは、夜にイベント共催のライブをやるらしいことも知った。
 もっと早く知っていれば……などと思いつつも、ちょっとした気まぐれが面白いものに出会わせてくれたことが嬉しかった。

 その後、一昨年は阿佐谷には行ったものの、午前中しか時間がなくライブそのものは見れず聴けずだった。去年はまったく都合が合わず、行くことすらできなかった。
 そんな前提があっての無理矢理に作った今年の1時間ちょっと……。来年こそは、事前に調べて、時間を取って、チケットを買って、と思うが……はたして?




 東京周辺のジャズのメッカといえば、一番が横浜、いやいや六本木だとか、歴史的に見れば銀座、あるいは浅草だろうとか、まあいろいろあるようだが、私にとって、ジャズ、といえば、中央線沿線……である。

 ジャズを好んで聴くようになったのは20才になる少し前、新宿にあったジャズ喫茶「DIG(ディグ)」にたまたま一人で入ったことがきっかけだった。
 当時のジャズ喫茶を知っている人なら頷いていただけることと思うが、おしゃべりは厳禁、名機と言われる高級オーディオ装置でもって大音量で否応なしにジャズを聴かせる……。ふつうの喫茶店の雰囲気をあたり前と思っている人にはとんでもないことかもしれないが、その頃の私にはそれが痛くフィットしたようだった。以来、新宿に出るとその独特の雰囲気を求めてジャズ喫茶を探し歩くようになったのだから……。

 これ以前、私にとってジャズは未知の音楽ジャンルだった。ただ高卒後、某有名音響機器メーカーの関連会社に就職した関係で、オーディオファン、特にマニアといわれるような領域でオーディオを楽しんでいる人たちの多くがジャズを好んで聴いている、ということをよく耳にしていた。だから心の内には多少の興味が生じていたようにも思うが、ジャズから連想される何やらこむずかしいようなイメージと、手持ちの安物のオーディオ装置で聴いても……という、わけのわからない理屈でもって少し敬遠していた感じだった。
 そんな私の手前勝手な概念をみごとに壊してくれたのが、ジャズ喫茶だったように思う。

 あたり前のことながら、ジャズ喫茶通いして何度も耳にするうち、それほど好きというわけでもなかったジャズという音楽に対しての興味が、どんどん強くなっていった。名盤、名曲といわれるようなレコードを買っては聴き、ジャズの雑誌や評論誌などを読みあさり、コンサートにも行くようになった。
 新宿厚生年金会館で「マイルス・デイビス」「MJQ(モダンジャズクァルテット)」といった外国のミュージシャンの演奏スタイルに驚き、新宿歌舞伎町の映画館で毎年大晦日に行われていた「オールナイト・ジャズ・フェスティバル」で 山下洋輔さん の強烈な肘打ち奏法を見てぶっ飛んだ気持ちになったこと、等々……、今でもはっきり覚えている。
 とまあそんな具合、私のジャズとの出会いは、新宿から……だった。

 「DIG」でジャズ喫茶の面白さを覚えた翌年、会社の寮を出て、東中野で一人暮らしを始めた。職場が近く、姉の家が近い、というのが大きな理由だったが、新宿に歩いても行ける距離、というのもあったように思う。けれどもそれからしばらくして、新宿が嫌いになったというのではないが、歌舞伎町辺りの独特の喧噪、いつ行ってもどこへ行ってもものすごい人ゴミ、そんなことに対して少しばかり煩わしさみたいなものを感じるようになっていた。
 雑誌で吉祥寺のジャズ喫茶が紹介されているのを見たのはそんな時だった。

 秋田の高校生だった頃、フォークソングが全国的に流行っていて、ご多分にもれず私もフォークソングに夢中となり、ギターを覚え、拙い詞と曲をつくり、高校の文化祭や小さなライブ会場などで歌ったりしていたが、そんな地方のフォーク好きの共通のあこがれの地があった。それが吉祥寺……。
 ところが、上京して2年以上過ぎていたにもかかわらず、なぜかきっかけがなく、なかなか行けないでいたが、ようやく、ジャズ喫茶目当て、というきっかけができた……。

 初めて行った吉祥寺。高校生時分に思い描いていたような「フォークソングの聖地」という感じではなかった。それでも新宿や渋谷といった都心の街とは朗かに違う雰囲気や、井の頭公園に代表されるような周辺の環境……、それらはなぜか自分にしっくりする感じがし、街そのものを気に入ってしまった。

 この日、吉祥寺北口サンロード商店街脇の路地に「アウトバック」というジャズ喫茶を見つけて入った。化粧を施したむき出しのダクト、そのところどころに置かれているカラスの剥製が印象的な店だった。

▼ 写真で残してあった「アウトバック」の紙マッチ/裏面には音響設備……
011_ph08_outback.jpg

 「アウトバック」の隣には「赤毛とソバカス」というロック喫茶があり、これもまた嬉しい発見だった。

 この日を境に、吉祥寺方面に多く足が向くようになった。

 上京3年が過ぎた頃、会社を辞めデザイン学校の2部(夜間)に通うようになった。昼はアルバイトで夜は学校……の生活。会社勤めの時とは違い、懐には余裕など無いわけで、コンサートにはそうそう行けない。で、ジャズはもっぱらジャズ喫茶で……ということになった。

 改めて思い出してみると、あの時期、今なら驚くくらいジャズ喫茶によく行っていた。さすがに沿線にあった全部の店に行けたわけではないが、中央線沿線、新宿〜吉祥寺間の街々(大久保、東中野は除く)にはそれぞれお気に入りのジャズ喫茶があった。

 新宿では先にも書いた「DIG」、それに「木馬」「ビレッジヴァンガード」。がんがん聴かされるのがちょっといやな気分の時は「DIG」の姉妹店「DUG(ダグ)」。
 吉祥寺は「アウトバック」を目的に行くことが多かったが、「ファンキー」「メグ」「A&F」「しもん」「サムタイム」……と、数多くの店に行った。
 その他、中野=「ビアズレー」、高円寺=「洋灯舎」、阿佐谷=「吐夢」、荻窪=「グッドマン」、西荻窪=「ダンテ」といった店の名前が思い出される。

 中でも、隣駅の中野にあった「ビアズレー」は、東中野で暮らした8年間、一番多く行った店だった。

 「ビアズレー」の店名は、19世紀後半にイギリスで活躍したイラストレーター「オーブリー・ビアズリー」の名前から付けたものだろうが、正しくは「ビアズリー」が、なぜか「ビアズレー」だった。
 ともあれ、店内には大きなビアズリーのイラストポスターが数枚貼られ、壁面は鏡、全体はビアズリー代表作のイラストイメージからの黒基調……、シンプルでありながら要所要所に凝ったインテリアをしていた、という記憶がある。

▼ ビアズリーの代表作「サロメ」のイラストとジャズ喫茶「ビアズレー」のマッチ
011_ph09_ビアズリー

 ビアズリーのイラストが元々好きだったこともあるし、この店では私の好きな、ジョン・コルトレーンの曲がよくかかっていたこともある。それに加えてもう一つ……。

 ジャズ喫茶の魅力は、もちろん誰にも邪魔されずジャズに浸れる、というのにあったのだろうが、それは一般の人間にはなかなか手に入れ難い、高級オーディオで聴ける……というのがあって、なおさら……、だったように思う。

 「ビアズレー」には、当時マニア垂涎の名機といわれていたスピーカーシステム、「JBLパラゴン」が設置されていた。

▼ 名器「JBLパラゴン」
011_ph10_JBLパラゴン

 都内のジャズ喫茶でも「JBLパラゴン」が置かれていたのは数店ほどだったと聞く。私が行ったことあるジャズ喫茶では、「ビアズレー」の他は、吉祥寺の「ファンキー」くらいだった。

 当時のジャズ喫茶はとにかくオーディオへの力の入れ方が半端では無かった。家の広さや近所への迷惑を考えれば、たとえ名機と言われるようなオーディオ装置を手に入れられたとしても、大きな音で思う存分好きな音楽を楽しめる人などそうそういなかっただろう。
 そういう意味では、ジャズファンのみならず、オーディオマニアにとっても、ジャズ喫茶はありがたい場所だった(?)のではないか……と思う。

 こんな記憶がある。朝、寝床から出て、コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」を近所に響かない程度の音でかけ、また寝床に戻った。朝の爽やかさの中、というのもあって、聴き慣れたはずの曲がいつもより妙に気持ち良く聴こえた。
 その日の午後、買物があって中野に出かけた。帰りがけに「ビアズレー」に寄った。入った時に流れていた曲が終わり、次にかかったのは、朝聴いたコルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」。大音量というのもあったろうが、音の隅々まで聴こえる感じに圧倒された。コルトレーンの吹くソプラニーノ(ソプラノサックス)の音が違って聴こえた。「マイ・フェイバリット・シングス」という曲がますます好きになった。

▼ ジョン・コルトレーン「マイ・フェイバリット・シングス」アルバムジャケット
011_ph11_MFTjacket.jpg

 どうでもいい些細な記憶……だが、ジャズ喫茶に関わる記憶を辿ると、こんなことがなぜか思い出される。


 30代になって、ジャズ喫茶への足は遠のいた。ジャズに限ったことではないが、ステレオで音楽を聴く、というのもあまりしなくなった。

 いつ頃だったか……。確か40才前後……、久しぶりに中野に行き、「ビアズレー」があった場所に行ってみたことがあった。建物はあった。が、そこに「ビアズレー」の看板を見ることはなかった。

▼ かつて「ビアズレー」があった中野サンモール横の路地/右奥に見えるビルの2階だった (写真は2011.Sep. )
011_ph12_B跡地

 「DIG」しかり、「アウトバック」しかり、多くのジャズ喫茶が1990年代に閉店、あるいは商売替えしてしまったと聞く。


 かつて荻窪に本社のある新星堂のプロデューサーが、“中央線ジャズ”なる言葉を提唱したことがあったと聞くが、その根本にあったのは、ジャズ喫茶の存在ではなかったか……。
 あの頃、1970〜1980年代、新宿から先、中央沿線の街々には多くのジャズ喫茶が存在し、“ジャズ喫茶文化”といえるものが確かにあった。

 馴染みにしていた多くの店が無くなっている現実を見て、中央線の“ジャズ喫茶文化”は消え、“中央線ジャズ”も消滅……?、と、残念に思った一時期……がある。
 そんな、早とちり、とでもいうべき私の勝手な思いを振払ってくれたのが、3年前の“阿佐谷ジャズストリート”との出会いだった。

 “阿佐谷ジャズストリート”は今年がちょうど20周年だったそうである。20年前といえば1990年代半ば、多くのジャズ喫茶が閉店した頃……。バブル崩壊後の不景気感が蔓延していた頃でもあって、世の中、ジャズどころではない、という感じでもあったように思う。
 そんな中で立ち上げ、今日では全国的にそれなりに知られるイベントに成長させたのだから、これには心から拍手……だ。

 ただ、“阿佐谷ジャズストリート”は、阿佐谷という地域の活性、というのがベースにあって、“中央線ジャズ”が持つ概念とはちょっと違う……。
 私のように、中央線の“ジャズ喫茶文化”に育てられた(?)他の人が、これをどう見るか、これをどう思うか……、一度聞いてみたいような気もする。

 “ジャズ喫茶文化”がもう一度花開くことなど、別に期待してはいない。ちょっと違和感があっても“阿佐谷ジャズストリート”のようなイベントを否定はしない。気兼ねなくジャズが楽しめればそれで……。

 中央線沿線の街々でジャズを教えられた身としては、いつまでも “中央線ジャズ”健在、であってほしいと願うばかり……である。

▼ 今も変わらず営業中の、吉祥寺「サムタイム」(写真は2012.Oct. )
011_ph13_サムタイム


マイギター‥‥(再)

 長い間手を触れずにいた、ギターのケースを開けてみた。

007_01マイギター01


 多少ホコリっぽい感じはあったものの、自然劣化もなく、何の支障もない状態のギターが現れた。

007_02マイギター02


 こうしてまじまじと見たのはいつ以来だろう。最後に弾いたのは……? 久々に目にしたマイギターの前で、しばし感慨に耽った。

 <ヤマキ>の手工ギター、モデルNo,165 (Hand Made Yamaki. Model No.165)、というのがマイギターである。
 一番の特徴は、この種のギターにしてはちょっとハデ目にも見える細工のパーフリング(貝などで作られている縁周りの飾り)。

007_04パーフリング


 最近、気になってギターマニアのサイトなどであれこれ調べてみたが、フォークギターのパーフリングはライン的な細工のものがほとんどで、同じヤマキブランドの古いギターを数多く掲載しているサイトでも、全体のフォルムが同型のものはあっても、同じパーフリングが施されているものは見つけることができなかった。
 ひょっとしたら……と思ったりもしたが、まあ世の中そんなに甘くはないだろう。

 サウンドホール内のラベルには“1971.5.3”の製造印が確認できる。

007_03ホール内ラベル


 このギターを手に入れたのは1975年。作られてから4年後ということになるが、いわゆる中古品を買ったというのではない。

 このギターは高卒後最初に就職した会社で一番気が合った同期の友人Aが見つけてくれたものだった。Aが当時懇意にしていた楽器店の店主から、展示しているヤマキの手工ギターを、欲しい人がいたら定価は10万円だが6万円で売ってもいい(展示品だから……)、と言われたのだそうだ。
 ヤマキは1967年創立のギターメーカー。フォークギターの国産メーカーといえばYAMAHA、と言われていた1970年代初頭、ヤマキは知名度こそまだまだではあったが丁寧な音づくりに定評があり、プロの愛好家も多い、知る人ぞ知るといった存在だった。
 私はその楽器店も展示されていた状況も知らなかった。が、ヤマキブランドの手工ギターだということや、一番信頼している友人のAが良いと言っていることもあって、間違いなく良いものなのだろうと考え、あっさりと買うことを決めてしまった。給料が手取り6万円くらいの頃である、きつくないわけがない。それなりに迷ったが、結局ボーナス一括払いということで買ったのだった。

 このギターを買う以前には、ちょっとしたいきさつがある。

 このギター以前に私が持っていたのは高校2年の冬にアルバイトして買った東海楽器製のお手頃価格のもの。そのギターで奏法を覚えたりしたわけでいろいろと重宝はしたのだが、本来的なフォークギターよりもボディがひと回り小さく、音的にもけっして満足できるものではなかった。
 高校生の頃、文化祭や小さな会場でのフォークライブで歌ったりしていたが、お前のギターはステージに持ち込むには見栄えがしないと、見かねた友人が上のクラスのフォークギターを借りて来てくれたりしたものだった。そんなこともあって、働くようになったらもっと良いものを手に入れたいと思うようになった。
 就職したばかりの頃、新宿の楽器店などによくギターを見に行った。だが、欲しいと思うレベルのギターは多少無理が必要な値段で、いつも二の足を踏んでいた。

 同期入社に一人だけ大卒の人間がいた。大学時代にジャズを演っていた人なのだが、もう演奏する機会もないだろうからと、何本か持っているギターを処分するという。
 彼が持っていたのは全てエレキギター。私が欲しかったのはフォークギターだったが、その中の1本、イタリアエコー社製の12弦エレキギター、というのに興味が惹かれた。その12弦エレキギターをお前になら1万円で譲ってもいいという話になり、夏のボーナスで譲り受けることになった。
 譲り受けたその日の帰り、見せる約束をしていたこともあって、別の寮にいたAの部屋を訪ねた。いつも音楽談義をしている仲間も集まり、そのギターをネタに、夜遅くまで話し込んでしまった。いつもであればAの部屋に泊まり込むのだが、その日は職場からの帰りで、翌日が休日ということもあったので一旦自分の寮へと戻ることにし、手に入れたばかりのギターをAの部屋に置いていった。

 翌日、朝起きると周りが騒々しかった。話を聞くと、何とAたちのいる寮が火事で全焼したというのだ。慌ててAたちの寮へと行ってみた。無惨に焼けてしまった寮の前でAたちと会うことができ、全員無事な姿が確認できた。その寮は古い木造の建物だったため火の回りが早く、全員着の身着のまま逃げ出し、ほとんどの人が持ち物を全て消失したということだった。
 当然、昨日譲り受けたばかりの、イタリアエコー社製の12弦エレキギターは、一度もアンプを通して音を鳴らすこともなく、パーになってしまったのだった。
 友人たちが無事だったことでもあり、しかたのないことだとは思えたものの、せっかく譲ってくれた大卒の同期に申し訳ないというのもあって、やはりショックだった。

 最近その12弦エレキギターをとあるサイトで偶然見つけた。

007_05エコー12弦ギター


 自分のものだったのは40年近く前のほんのわずかな時間だったにもかかわらず、以外と記憶に残っているものだなと、我ながら感心(?)した。

 さてその後である。良いギターを手に入れたいという気持ちがなくなったわけではなかったが、12弦エレキギターの件以来、積極的に探し求めるという気分にならなかった。それに加え、それなりの音楽環境があった故郷を離れたことで、ギターを使って演奏する場などもうないのではと思ったこともあって、あえて高価なギターを買う必要はないのかも……などと考えるようにもなっていた。

 会社を辞めたAから掘り出し物ギターの連絡をもらったのは、12弦エレキギター焼失から1年ちょっと過ぎた頃だった。12弦エレキギターの件ではAなりに責任を感じてくれていて、何とか私に良いギターを持たせてやりたいという気持ちを持ち続けていてくれたらしい。
 気にかけてくれていたAの気持ちがうれしかったのと、それが少しあこがれのあった、ヤマキの手工ギター、ということもあって、原物を確認もせず、買うことを決心したのだった。

 初めて手にした時、それは想像していた以上に良いものであることはすぐ分かった。
 ちょっとハデ目だが、これまで見たことがない細工のパーフリング、堅牢さが感じられるボディのつくり、苦にはならない適度な重量感、何よりも弦を弾いた時の音の響き感はそれまで持っていたギターとは雲泥の差だった。
 私は一遍でこのギターが気に入り、それを自分のものにできることに少しばかり興奮を覚えた。Aには「サンキュー」の一言で済ませてしまったが、手に入れるまでの段取りをしてくれたことには、心から感謝……だった。

 というようないきさつを踏んで手にしたギターである。

 私の20代のほとんどは、このギターと共にあったといっても大袈裟ではないかもしれない。プロになりたいとか、音楽で生きるというような意識はさらさらなかったが、このギターを手にして以降のしばらく、私の音楽環境は異常なくらい楽しいものだった。
 一人暮らしを始めた時に淋しいのを紛らわせてくれた。愚にもつかない歌(?)を、たくさん作らせてくれた。素では面白くも何ともない自分に多くの音楽好きの仲間を呼び寄せてくれたのもギターの存在抜きには考えられない。
 八王子の仲間と一緒にコンサートを企画し大勢の前で歌うことができた。友人の結婚式では必ずギター持参で……というのが私の役割だった。

 結婚したのを境に、ギターを手にすることがほとんどなくなった。特別な理由などない。自然の成りゆきというやつだ。
 気持ち中では今でもギターをかき鳴らしているが、指の弦ダコはとうに消えているし、これからまたやろうというのには、少しばかり決心がいる。が、だからといってギターを手放す気などは毛頭ない。

 ギターケースを開けて以来、ギターのことが強く気になり出した。
 ギターをきれいに磨き、本体内のホコリを取り、弦を新しいのに張り替え、痛くなるのを承知で指に弦ダコを作ろうかと考えてはいるが、果たしていつスタートできるやら……ではある。

 最後にもう一度、マイギター……。

007_06マイギター03





追記
 一昨日、用事で烏山まで行った帰り道に吉祥寺の山野楽器で弦を4セットほど買って来た。使えるかどうか分らないサムピックと一緒に。
 30年ぶりに、ギターを響かせてみるつもりだが、弦ダコができるほどにやれるかどうかは、正直、???である。


永遠の存在になった …… 親友I

 リ・スタート2回目の記事。
 これにしていいのか……迷った、が、やはり書くことにする。



 3月17日夜9時過ぎ、珍しく携帯が鳴った。発信元表示は友人Iの奥さんのKさん。ちょっと胸騒ぎがした。
 携帯に出ると、いつものKさんらしい口調で「夜分遅くごめんなさい……」と話し出したが、急に涙声に変わり、「Iさんね、今朝亡くなったの」と言った。
 思わず「ええ〜!」と大声を上げてしまった。その後何を話したのか……。「とにかく明日そちらに行くから」とKさんに言って携帯を切った。

 ちょっと間を置き、共通の友人であるAに連絡しなければと、携帯を手にした。画面に着信アリのマーク。Aからだ。Kさんと話をしている間に入っていたらしい。
 Aに電話した。Aは先週Iの見舞いに行って言葉を交わしたばかりで「信じられない」と。それは私も……だ。「今週見舞いに行く」とKさん経由で伝えていたのだから。
 Aも明日Iの家に行くと言う。「じゃあ午前中」ということで携帯を切った。

 Iのことはカミさんももちろんよく知っている。私の心中を察したのか、あまり余計なことを口にしないでくれた。何か呆然とし、妙に心臓がドキドキする感じになり、いつもより寝る時間が遅くなった。

 翌日、どうでもいい?ことなのに、何を着ていくかやたら迷った。家を出て、すぐ忘れ物に気づいて戻った。それを3回繰り返した。忘れ物をし易い私だが、ここまで出掛けにもたもたするのは滅多にない。
 正直、親友の死に顔など見たくなかった。反面、すぐ行ってやらなきゃ、の気持ちも強かった。そんな相反する気持ちのぶつかり合いが、ひどいドジをさせたのかもしれない。

 久しぶりだったこともあるが、途中迷ったりして、ここでも余計な時間を費やし、ようやく、と言ってもいいかもしれない感じで、Iの家に着いた。
 少し手前にあるチャイムのボタンを押すのを忘れ、ドアをノック。ドアを開けてくれたのが、Iの一人娘Mちゃんだと、すぐに気がつかなかった。
 家の中にお邪魔し、Iが眠っているリビングへ。ちょうど近所の人が弔問に来ていた。それが終わるとIのそばへ。
 思わず口から「早過ぎるぞ、このバカ」の言葉が出てしまった。
 髪に軽く触れてみた。柔らかだった。安らかな顔をしていた。「苦しまずに逝った」とKさんが言っていた。その一言に少し安堵を覚えた。
 線香に火をつけ、手を合わせた。昨日からの呆然とした感じがようやく収まった感じがした。

 30分ほど後に、Aと奥さんのTさんがやって来た。Aは秦野に住んでいる。Iの自宅の狭山までは車で3時間くらい係るそうだが、駆け付けずにはいられなかったろうと思う。

 少し落ち着いた後、一人娘のMちゃんから、葬儀で流す曲を選んでくれと頼まれた。
 Iはロック系の音楽が好きだった。特に70年代のプログレッシブ系ロックとアメリカウェストコースト系ロックが好きだったはずだ。プログレ系はAに任せ、私はウェストコースト系から選ぶことにした。
 Aはムーディーブルースから1曲決めた。入院中、Iはウォークマンでよく音楽を聴いていたようだが、そのウォークマンに最後に入れていたのが、ムーディーブルースのCDだったとのことだ。
 私は、イーグルスの曲を2曲。20代前半の頃、確か彼とあと何人かと一緒に、イーグルスの武道館ライブに行った記憶がある。その時のことをなにげに思い出しながら選んだ。
 「ロックを葬儀の曲にするなんて……」と言って微笑んだKさんを見て、お役に立てた感じでちょっと嬉しかった。そばで眠っているIはどう思ったか……? ひょっとしたら苦笑い、かも……だ。

 Kさんが昼食を頼んでくれた。せっかくのご好意に甘えることにし、皆で昼食を一緒にした。Kさんの母上も交え、Iのことを中心にあれこれ。ちょっとだけだが、ほっとする時間が作れたように思える。


 3月21日に通夜。翌22日に告別式が行なわれた。
 Iの自宅での納棺。通夜、告別式は受付として。斎場での火葬から初七日法要まで。Aと共に葬儀の全てに立ち会わせてもらった。疲れはしたが、ありがたく思えた。

 葬儀では受付をさせてもらったせいもあって、ずいぶん懐かしい顔ぶれに会えた。Iの人徳なのだろう。

 通夜の後、A夫婦には私の自宅に泊まってもらった。Aとゆっくり話ができたのは何年ぶりだろうか……? これはIのおかげと言ってもいい。
 Aとはこれからゆっくりと旧交を温めていきたいと思う。


 葬儀から3週間。いつもと同じ毎日に戻ったが、Iがこの世にいなくなった事実と、彼との40年超のつきあいでの思い出が、時折脳裏を過る。
 Iとの思い出はあまりに多く、とても今ここで書き切れるものではない。だからこのブログを続けていく中で、Iには時々話の中に登場してもらうことにしようと思う。


 Iに送る短歌が浮かんだ。

2002_ph01短歌

 ど素人の短歌でお恥ずかしい限りだが、口に出しては言い難い思いも、こういう形に表現すると、案外素直に出せる。
 Iは私がこういうのをするようになったことを知らない。だが、ロマンチストだったはずのIだから、こういうのも嫌いではないと思う。

 Iを知る皆にとって、Iは永遠の存在として心に残っていく。

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